『リズと青い鳥』と『8 1/2』

Twitter で『花束みたいな恋をした』の感想を呟いていたら、何を言っているのか分らないと友人に言われました。備忘録的に呟いていたので分らないのも当然なのですが、人に伝わるように分解して言葉にしないと分からない事もあるかもしれないと思い、最近見(直し)た、『リズと青い鳥』を観て考えた事を書きたいと思います。『花束みたいな恋をした』の感想とちゃうんかい、と言われるかもしれませんが、私は『花束みたいな恋をした』が嫌い1なのでどうせなら好きな映画について書きます。以下、すでに『リズと青い鳥』を観た前提で書きます。後半は『8 1/2』を観ていると分かりやすいかと思います。

リズと青い鳥

リズと青い鳥』は、高校の吹奏楽部が舞台のアニメ映画です。コンクールでの自由曲「リズと青い鳥」のフルートソロとオーボエソロをそれぞれ担当する3年生、傘木希美と鎧塚みぞれを主人公とし、二人の関係の変化を描きます。

みぞれと希美

みぞれは、内向的でおとなしい人で、自分の感情や考えがすぐ表に出ます。緊張したり快くない事が起きたりした時には浮かない表情で髪を触り、はじめ仲良くなかった後輩たちに遊びに誘われた時ははっきりと断り、逆に、その後輩と仲良くなった後にはリードを作ってあげたりプールに誘ったりしています。また、みぞれは、希美にかなり依存しています。自身の選択の基準に常に希美が置かれています。自分と希美を唯一繋いでいるのが音楽であるという理由からオーボエを続け、また、希美が受験するならと、自身の進路を音大に決めたりします。

逆に希美は外交的で活発な人で、自分の感情や考えを慎重に選んで表に出しているように見えます。みぞれたちとプールに遊びに行く計画を立てているシーンで、みぞれが他の子を誘ってもよいかを尋ねた際の反応や、物語のクライマックスに顕著です。また、希美は、みぞれに対して劣等感と執着を抱いています。この劣等感は二つに分けられると思います。つまり、自分の後ろを付いてきているみぞれのオーボエがとても上手である事と、自分にはみぞれのように音楽に掛ける情熱が無い事です。前者については、例えば、物語の後半、みぞれだけが音大受験の誘いを受けた事を知った際に、押し黙った後、暗い声で自分もその大学を受けようかと言ったシーンに表れていると思います。これは、執着も表しているようにも思います。後者については、1年生の時、先輩との折り合いが悪くなった程度で部活を辞めた事や、優子と夏紀への告白のシーンに表れています。


二人の苦しみ

劇中作『リズと青い鳥』の登場人物であるリズと青い鳥を、それぞれ、みぞれと希美になぞらえて物語が始まります。
みぞれは、希美がまたどこかへ行ってしまうのではないかという不安や、常には一緒にいられない事に苦しんでいます。とくに劇中においては、楽曲「リズと青い鳥」を演奏する際、自分の元に訪れた青い鳥を解き放てないし、そうする理由も理解できない事に苦悩します。唯一自分と希美を繋ぐ音楽によって表現すべき事があるのに、その表現は希美との繋がりを断てと命じている。みぞれにとってはどちらを選んでも希美との繋がりが断たれてしまう。
みぞれのこの苦悩は、みぞれの幼さ故に生じるものであると思います。ここで「幼さ」とは、希美を一個の人格として、つまり他人として考えられない事です。

希美の苦しみは何か。先も述べましたが、自分が持つ音楽に対する情熱への疑念がひとつだと思います。フルートは好きだし、プロになれるならなりたい。でもそもそも本当に食べていけるようになりたいと考える程なのか。これらに加えてより苦しいのは、自身が持つ、みぞれへの敗北感と綯交ぜになった劣等感と執着です。自分もそれなりに上手く演奏できる。なのに、自分が音楽の道に誘って、いつも後ろを付いてきてるみぞれの方が上手にオーボエを演奏する。そして、鳥籠の鍵の開け方を知ってしまった事を嘆いてしまう程、みぞれに執着している。鍵を開けて自分から離れる事を願うような決断は出来ない。執着は愛ではないから。執着とは、みぞれが自分にとって理解可能なままでいて欲しい、自分を超えるような何かであってほしくないという欲望です。
そして作中、そんな苦しみを持つ希美に、みぞれは突き放すような演奏をします。耐えられなくなった希美は、逃げるように科学室に向かいます。


二人の苦しみについて思ったこと

二人とも、互いを自己と分離できていないから苦しいのだと思いました。みぞれにとっては、希美は自分を救ってくれた恩人で、唯一の友人です。その上、一度自分から離れて、でもまた自分の所に戻って来てくれた。なのでみぞれは、二度と離れないように、自分を徹底的に希美の物にしようとする。希美は、自分が吹奏楽部に誘ったみぞれの才能が開いていく様子に困惑、焦燥、怒りを感じていたのでしょう。それでも自分の後ろにずっと付いてきてこちらを伺い続けるみぞれを、自分の一部のように考える事によっていくらか溜飲を下げる事が出来ていた。
冒頭に提示された "disjoint" (数学用語では二つの集合が共通した部分を持たない状況を意味します) は彼女らの間のこの状況を指しているのだと思います。本当は自分と他者がいるのに、みぞれは自分を無視し、希美は相手を無視しています。二つの集合のうち片方しか考えないないのであれば、交わりを考えることはできません。

二人の苦しみを産んだ他者と自己の同一化の原因は、幼さです。希美も、みぞれ程ではないにせよ幼いです。幼いのは良くないです。幼さがなぜ良くないか。責任が無いからです。そして、責任が無い所に救いもまた無いように思います。人が誰かに責任があるという事は、その誰かのために何かを出来る余地があるという事です。責任が無いなら、つまりその誰かに何をも出来ないのであれば、救いはありえないように思います。


二人の成長と苦しみの解決

では『リズと青い鳥』は救いがなく、悲劇的に終わったのでしょうか?そうではないと思います。冒頭で示された "disjoint" は、"dis" が削除されて "joint" (共通の部分を持つ) に変化しました。但し、互いが互いを思い、他者としての相手を自分のように労り、尊重するのでない限り、joint があり得るとは思えません。二人に joint が生まれた事は、水彩がゆっくりと交じり合うカットで印象的に描かれています。青色と赤色がゆっくりと互いの共通部分で交じり合いながら、一方でそれぞれに青い部分と赤い部分を残しています。

二人の幼さや苦しみはどのように解決されたのでしょうか。

みぞれの苦しみの解決

本作のクライマックスでは、対比が逆転し、リズの愛を受け取った青い鳥が飛び立ったように、希美からの「愛」を受け取ったみぞれが素晴らしい演奏を見せます。しかし、希美からのこの「愛」は、みぞれの幼さが生じさせた勘違いです。演奏のシーンの直前、一人で藤棚に座っている希美が、自身をリズになぞらえて、鳥籠の鍵の開け方を知ってしまった事を嘆きます。この嘆きには愛と呼べるような暖かさはないでしょう。にも拘わらず、みぞれはその幼さ故に、自分が希美に対して持っている愛を希美も自分に対して持っているのだと勘違いし、「愛ゆえの決断」なんてものは凡そ出来ていない希美を残して一人で飛び立ちます。希美の「愛」を受け入れる事が、自分の愛であると信じて。このように、みぞれは、幼さ故にある苦悩を、幼さによって解消しました。きっかけが何であれ、みぞれは少し成長します。しかしこの成長は希美を傷付けてしまいます。

希美の苦しみの解決

みぞれがオーボエソロで飛び立った後、シーンは科学室に移ります。希美が一人、口を真一文字に結び、空中を見つめています。希美の目元には赤い跡が見えます。希美の胸中には、みぞれとみぞれの演奏に打ちのめされたという事実がありました。その事実は、みぞれと、同時に音楽が、もう自分の手の届く範囲に居なくなった事を示します。そんなことはずいぶん前から分かってはいましたが、打ちのめされたという事実によって、それらがごまかしの利かない仕方で希美に迫ってきていたのでした。そのような仕方で事実が迫って来る時に、人間は三つの行動を取る事ができます。破滅するか逃避するか戦うかです。

希美は初め、破滅を選びました。一人でいる希美の元にみぞれがやって来ます。みぞれは希美が泣いているのかを尋ねます。それを受けて、希美は、みぞれを突き放します。みぞれはずるい、みぞれの自分への気持ちは大げさだ、と言います。この突き放し方にもう執着は無いですが、愛も無いでしょう。八つ当たりと自傷です。
そんな希美にみぞれは自分の心を伝えようとします。みぞれは、動機こそ幼い勘違いであったにせよ、一つの事実として飛び立ちました。自分はもう希美の一部ではない。だから、自分が希美を愛していると伝えなければならない。その伝え方が依然幼いものだったとしても、みぞれにとって希美が他者でなければこのようにはなりません。
ただし、みぞれの愛の告白は、希美の劣等感を取り除くものではありませんでした。抱き合いながら、みぞれは希美の好きな所を挙げます。希美は、みぞれが自分のフルートが好きだと言ってくれると期待したのだと思います。しかし、みぞれが挙げたのは、笑い声、話し方、足音、髪。これらは希美が欲しいものではありませんでした。最後、「希美の...」と言い淀んだみぞれに、希美は眼を見開いてもう一度期待を寄せますが、みぞれは「希美の全部(が好き)」と言いました。みぞれは結局、フルートとは言いませんでした。
みぞれが最後に「希美の全部」と言った瞬間に、希美は「みぞれのオーボエが好き」と言います。これも破滅としての八つ当たり、つまりみぞれのオーボエしか好きではないと突き放す事、もしくは破滅としての自傷、つまりみぞれを持ち上げる事で自分を惨めにしようとする試み、のように取れるかもしれません。あるいは逆に、希美の、みぞれへの愛の告白であるように取れるかもしれません。しかし、私はこれらのどれでもないと思います。では何であるか。自己に同一化していたみぞれと、音楽とへの決別であろうと思います。つまり、逃避です。

最後まで自分が望む言葉を与えてくれないみぞれへの「みぞれのオーボエが好き」は、自分の一部であった重要なもの、みぞれと音楽への決別です(ただし、自傷を含んでもいるでしょう)。自傷と同じで、決別にも痛みがありますが、目的が違います。自傷は過去と現在への憐憫ですが、決別は未来を始めようとする意志です。果たして希美は、みぞれから欲しい言葉を与えられませんでした。その事は希美にとって痛みです。しかし未来に向かうための痛みです。
沈黙の後、希美は笑い、みぞれへ「ありがとう」と三度告げ、科学室を後にします。一人で廊下を歩く希美は、みぞれとの出会いを思い出し、深く息を吐きました。重大な何かを受け入れる時、人間は息を深く吸って吐きます。この息を吐いた時、希美はみぞれと音楽に執着する事を辞めようと決めたのだと思います。


本作の繊細さについて

本作はよく繊細な物語であると言われています。本作の繊細さについて思ったことを言います。

苦悩の解消は、みぞれにとって、青い鳥がリズの元からの旅立ちを表現する事と、希美との繋がりを否定する事は同じではない、むしろ繋がりを強くするものだという気付きです。希美にとっては、みぞれと音楽から逃避できるという気付きだったのだと思います。それ自体にも苦悩と痛みがあるとは言え。
本作の繊細さは、希美の苦悩の解決の仕方に表れているように思います。みぞれは飛び立って自立を始めたとは言え、まだ希美が何故苦しいのかが理解できていません。ですから、希美が欲しい言葉を与える事が出来ませんでした。しかし、欲しい言葉を与えられない、あるいは察せられないみぞれの幼さは、希美にとっては救いのきっかけにもなったのだと思います。と言うのも、それが逃避の道を示したからです。自分のフルートを、みぞれは気にしていない事、それをはっきりと示される事の痛みが、逃避、決別を受け入れさせるからです。(この説明は微妙に的を外している気がします。。。逃げ道を見せて納得させようとしている、というのとは違うからです。下記の『8 1/2』との対比の方が分かりやすいかもしれません。)
この救いのプロセスに私は繊細さを見ます。つまり、愛を伝えるみぞれの行動はみぞれの成長の結果、自他の分離の結果です。しかしみぞれは、希美の苦しみを理解できてはいないという意味で未だ幼い。そして、この成長と幼さが、希美の苦悩を和らげました。
この二人はずっと噛み合っていません。それでも二人の間に "joint" が生まれ得る。少しでも状況が違えば二人の間の美しい交流(の予感)はあり得ない。この意味でとても繊細な物語だと思いました。


二人のこれからの苦しみについて

リズと青い鳥』以降で二人にどのような展開があったのかは『響け!ユーフォニアム』の原作小説やアニメを見れば分かるのかもしれませんが、私は原作未読、アニメは見たけどあんまり覚えていません。なので以下妄想です。

これからも二人の苦しみは続くだろうと思います。みぞれにとってはもう自分が依っていられるような希美がいない事への孤独があるでしょう。他人である希美と一緒にいたいと願ってはいるでしょうが、少なくとも大学は違います。高校を卒業した後の二人の関係はみぞれにとっては大きな不安であり続けるのだと思います。そしてもう一つ、みぞれの希美への愛がもし恋愛感情であれば、それが成就するかの不安が、そうでなければその曖昧な愛をどう扱うのかが、重要な問題として残り続けます。

希美にとっては、音楽を諦めようとする事、諦められたとして諦めた事に燻り続ける気持ちが問題になります。音楽との決別を決心した希美ですが、みぞれに「ちょっと待ってて」と伝えたように、決別をしたと言えるようになるまでに時間がかかります。ずっと持ち続けていて今もある音楽への気持ちが本当なのかどうか。自分のこの気持ちが弱いように思えてしまう事への失望、執着なのではないかという疑念がある。でも、音楽をやりたいという気持ちは嘘ではない。この混乱を整理するにはかなりの努力を要するでしょう。また、たとえ諦めがついたとしても、音楽の道に進まなかった事を折に触れて後悔するでしょうし、その度にみぞれへの嫉妬や羨望を抱いてしまうと思います。


二人のこれからについて思うこと

まず希美について。私は、希美が、みぞれと音楽から逃避したと述べました。既にお分かりかとは思いますが、ごまかしの利かない仕方で深刻な事態が襲い掛かってきた時、逃避するのは悪い事ではありません。自分と周囲の状況をよく整理・勘案し、戦略を変更し、より良い自分を目指す事が悪いはずがない。悪いのは破滅だけで、戦う事も悪い事ではありません。希美もあるいはフルートにより打ち込む事も出来たかもしれません。しかし、これは非常に疲れます。希美にとっては、自分が音楽を続けたいと思っている気持ちはただの執着なのではないかと常に不安で、みぞれとの技術の差と劣等感にも苦しむ事になるでしょう。この疲労を希美は知っているので、私は希美に逃げるなとは言えない。むしろ、一度、音楽からもみぞれからも距離を取る事。この痛みと安らぎがあればこそ、希美は、みぞれにも音楽にも向き合う事が出来るようになるのではないかと思います。みぞれとの関係も、フルートの演奏も、逃避する事でより優れた物になりうると私は信じています。

みぞれについて。みぞれの希美への愛が恋愛感情であるならば話は単純です。それが成就したのなら、今見えている問題は解決します。また、希美がその愛を拒絶したとしても、一人で飛び立てた事、オーボエを続ける事が、みぞれを支えるだろうと思います。故に、彼女にとって本当に大変なのは、希美への愛が、恋人になる事や結婚する事を目指すものでなかった場合です。みぞれの愛は恐らくこちらではないかと思います。強い友愛と依存と執着が綯交ぜになった愛です。これらの内、最大の問題であった希美への完全な依存は解消の兆しが見えました。友愛も依存も執着も、大きさを間違えなければ健全な感情であるように思います。しかし、みぞれにとって重大な問題であるのは、この愛は、二人で(もしかするとみぞれ一人だけで)一から創り出し、維持していかなければならない性質のものだという点です。結婚であれば一つのフォーマットが定まっており、それを使用できます2。しかしみぞれの愛は一般に名づけの無い類のものです(もしかしたら「百合」と呼ばれているものの一つでしょうが、「百合」にしたって「愛」と同じで意味の範囲が広すぎます)。この愛を希美との間に形作り、それを維持する事には大変な努力が必要でしょう。それに、そもそも自分がそのような愛を抱いている事実を受け入れる事自体が難しい問題であるとも思います。と言うのも、複雑で曖昧な愛を自分が持っている事を受け入れるのであれば、その愛を希美に受け入れて欲しいと願わざるを得ないからです。

私は、希美に音楽を続けて欲しいなと思っています。それは、希美の苦悩が優れた音楽を生み出すと思うからですが、また、希美が音楽を続ける限り、みぞれとの関係が続くだろうと思っているからです。希美にとって音楽はみぞれを抜きに考えられないでしょう。これが良い事なのかは私には分かりませんが、希美とみぞれの間に生まれた、繊細で綺麗で替え難い関係が長く続くならばそれは良い事なのだと思います。二人が互いを受け入れ、苦しみが小さく薄くなっていくなら嬉しいなと思います。

物語の最後、一緒に下校していると、みぞれが希美に、「今はちょっと待ってて」と言い、みぞれは希美に「私もオーボエ続ける」と伝えます。そして二人は異口同音に「本番頑張ろう!」と言います。先を歩く希美がみぞれを振り返り、みぞれが驚いたような顔を見せた後に画面が暗転し、映し出された "disjoint" から "dis" が消え、スタッフロールが流れます。



8 1/2

フェデリコ・フェリーニが監督した『8 1/2』という映画があります。主人公のグイドは映画監督で、ロケ地でスランプに陥り、何ヶ月も苦しんでいます。製作者には早く撮影を始めろとせっつかれます。友人の批評家に脚本の案を見せたら、君の知性が足りていないし、この内容では誰も興味を持てないとこき下ろされます。枢機卿に意見を伺っても何も感じる事が出来ず、遠回しに脚本を批判されます。呼び寄せた奥さんと愛人がバッティングしてさんざん罵倒されます。作中、グイドは責め立てられる度に空想の世界に逃げ込みます。過去の思い出や、ハーレムで甲斐甲斐しく働く奥さんの妄想です。
脚本は書けんわ私生活は上手く行かんわでめちゃくちゃになっていたグイドですが、堪忍袋の緒が切れた製作者に拉致され、無理やり製作発表会に出席させられてしまいます。発表会では記者や製作者や奥さんが口々にグイドの事を責め立てます。混乱と焦燥が最高潮に達したグイドは机の下に逃げ込み、ポケットに入っていた拳銃で自分の頭を撃ち抜きます。

拳銃自殺は妄想だったのか、グイドは、批評家と撤去のための作業員以外に誰もいなくなった会見場に立っていました。静かになった会場で、グイドは作業員たちに「次の映画で会おう」とぶっきらぼうに言います。すると批評家が捲し立てるような長い一人演説始めます。

軽々しい冒険の報い、自業自得だ

君の誤りの集大成を人が喜ぶなど思い上がり
人生の断片を集めて何になる
あいまいな記憶、愛せなかった人々など

等々、グイドはボロクソ言われます。しかしグイドの耳には殆ど入ってきていません。批評家が捲し立て続けている間、グイドは爽やかな空想の中にいました。彼は独り言ちます。特に奥さんに向けて;

この突然の幸福感、わきだす力は何だ

すべては混乱したまま
この混乱が私なのだ

人生は祭りだ、共に生きよう
私にはそれしか言えない
あるがままの私を受け入れてくれ

奥さん;

それでいいのか...
でもやってみるわ

ここからサーカスが始まります。グイドが今まで関わってきた人たちが、楽し気な曲の中、サーカスの盆の周りを手を繋いで踊りながら回っています。グイドが奥さんの手を取り、踊りの中に入っていきます。やがて陽が落ちて暗くなり、誰もいなくなった舞台の上で、ライトに照らされた少年が笛を吹いているだけになります。徐々にライトが暗くなり、舞台とカメラから少年が退場してこの映画は幕を閉じます。

以上があらすじですが意味不明ですね。でもマジですごい映画です。

リズと青い鳥8 1/2

なぜこの映画の話をしたかというと、『リズと青い鳥』見ていて『8 1/2』と似ているなと思った所があったからです。あと私が一番好きな映画だからです。 似ているなと思ったのは、

  1. 見終わったあと考えると実はほぼ何も解決していない点
  2. 希美が、みぞれと音楽から距離を取ろうとしたシーンと、グイドが自身の混乱を受け入れたシーン

です。

1 について

8 1/2』ですが、この映画、ハチャメチャな爽快感がある割には、実はほぼ何も解決していません。主人公のグイドが自身の混乱を受け入れることを決めただけで、奥さんがグイドを許そうとするシーンも、みんなでダンスをするシーンも妄想の中だけで起きています。『リズと青い鳥』も、映画の開始時と終了時で、客観的な状況は何も変わっていません。みぞれと希美の心中に変化があっただけです。
私は変わっていない事に文句を言っている訳ではありません。フェリーニが『8 1/2』について、「到達点ではなく、到達点の始まり」だと言っていたからです。実際、フェリーニは『8 1/2』の後、『魂のジュリエッタ』、『アマルコルド』等、『8 1/2』で提示された主題や手法を洗練した傑作を生み出し続けました。みぞれと希美もそうなんだと思ったのです。『リズと青い鳥』は二人の関係の始まりで、これからも関係を創り、維持し続ける始まりなんだと思いました。

2 について

8 1/2』を引き合いに出して来た真の理由は、自分の言葉で希美の心の動きを説明することが出来なかったためです。

脚本が書けず、私生活も破綻しかけていたグイドは、撮る予定だった映画が無くなりました。これは逃避なのだと思います。一度拳銃で頭を撃ち抜き、撮る予定だった映画を無くす(ただし本当に撃ち抜いていたら逃避ではなく破滅です)。そしてその後、戦う事を決めたのだと思います。一旦、今自分の内外にある混乱から逃避する事は、その混乱から距離を取り、冷静に見つめ直すきっかけを与えるのではないでしょうか。そして混乱を受け止める事、あるいは受け止められると心から思う事が、もう一度戦いを始める為に重要なのだと思います。グイドは独白します;

君らを受け入れ愛すればいいんだ
なんて解放感だ
すべてが真実で輝いて見える
これを説明したい、だがどう言う
全ては混乱したまま
この混乱が私なのだ
望む姿ではないがもう怖くない

希美にもいつか同じような変化が起きれば良いなと思います。グイドにとって本当に拳銃で頭を撃ち抜く事が、希美にとってはみぞれを責める事でした。「みぞれのオーボエが好き」はどうでしょう。本当の拳銃でも空想の拳銃でもあるような気がします。笑った後に言った「ありがとう」や、廊下での深い息は空想の拳銃でしょうか。もう少し優しい道具がふさわしい気もします。


「二人のこれからについて」でも述べましたが、希美にも、グイドのようにもう一度戦う事を決めて欲しいなと思います。つまり、音楽をもう一度初めて欲しいと思います。フェリーニは明らかにグイドを自分の分身として『8 1/2』を撮影しました。フェリーニが『アマルコルド』を生み出したように、希美にも優れた音楽が生み出せると、私は信じています。


  1. 『花束みたいな恋をした』がつまらないと言っている訳ではありません。むしろ凄い映画やと思っていますが、凄さと好悪は別の問題です。
  2. 未だに同性婚は出来ませんが形式として。また、結婚というフォーマットがあると言っても、カップルによって関係の仕方が違うので努力は必要だと思います(私は結婚をしていないので知りませんが)。